随想

 
 
随想
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2020/07/13

◎津軽の旅 2006 (1)◎

| by patho

今年(2016年)の6月は弘前で第57回日本神経病理学会がある。今から10年以上前の2006年、津軽の旅をして以来の弘前行きである。以下、当時の日記を振り返ってみた。

------------------------(以下 日記2006)-------------------------

朝8時過ぎに東京を出発し、一路、弘前へ。八戸まで新幹線で3時間、そこから青森駅経由で1時間半。昼過ぎには弘前駅に到着した。チェックインしたホテルのフロントには、津軽の名家に誕生した第3子が男であった由の、昔の号外が置いてあった。太宰治、である。

弘前への訪問は25、6年振りだ。大学生のころに何かの全国集会が弘前であったので、東京から函館に飛んで、青函連絡船で青森に戻り、汽車で弘前入りしたことを、おぼろげながら覚えている程度だ。それはちょうど、ねぷたの頃で、弘前大学付近の宿泊所に雑魚寝をしながら、連日会議をしていたような気もするが、何の会議であったのすら、その辺はもう記憶にない。そんなことを考えながら、ホテルを後にして、弘前入りの途中に通った青森まで、奥羽線の各駅電車で戻ってみることにした。約40分、右手に八甲田連峰を見やりながら、ふと思いついた。青森港に保存停泊中の青函連絡船、八甲田丸を見に行こうと。

青函連絡船には若い頃、何度も乗った。生まれて間もなくの東京から函館へ(ただし記憶はないが)。その後、札幌、東旭川、旭川。売れない流しの演歌歌手のようだ。そして、小学校2年に旭川から東京へ。中学校2年の時の東京からまた函館へ。親は勝手なものだが、小さい頃は文句も言わずについていかなければならない。その後は、中学卒業の春休みにトランペットを買いに函館—東京の往復。高校3年、一人下宿をして初めての夏休み、東京への帰省往復、そして冬休みの往復。大学になってから、一度、函館放浪の旅。それらすべてが、青函連絡船であった。

そんな事を、ぼんやりと数えながら青森駅に降り立つ。駅前できょろきょろするまでもなく、黄色と白に塗られた八甲田丸が目に入る。なんだ、結構綺麗に手をいれちゃってるのか、と少し溜め息をついて歩いて近づいてみたが、次第に大きくなる船体には、長年の風雪に耐えきれなくなった錆が、いたるところに顕われてきていて、なぜかほっとしたわけだ。そう、あの時のままの連絡船だよ。シケで出ることができなかったデッキがあれだよ、乗船する時の木製の扉があれだよ、外の夜の海原を覗いた小さな窓の奥に映る少年の影が、あの頃の僕だよ。そんな感傷みたいな感覚に包まれながら、北津軽の旅が始まったのである。


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2020/07/12

◎津軽の旅 2006 (2)◎

| by patho

駅前に戻ったのは3時近くになっていたのでランチができる店はあまりない。無駄に彷徨っていてもいかがなものか、ということで、すぐ目に留まった食堂に入ってみた。土地の者ではないので、何かおすすめはありますか?と聞くと、店のおばちゃんが自嘲気味に、こっちはあんまりね〜のさ、けの汁くらいしか、と言って写真つきのメニューを見せられた。けの汁って何?? けの、ということは、ハレじゃなくて、ケの汁?? つまり、ハレの日のものじゃなくて、普通の日常生活の中の、普通の汁?? 写真の中には何やら野菜の細切れみたいな具が沢山入っているスープのようにも見えるのだから、特別なものじゃなさそうだ。でも、こんなものしか、と言うのだから、なんぼのものなのだろう、ということで、けの汁定食を頼んでみた。あとで調べてわかったことだが、けの汁は、野菜・根菜やこんにゃくの細切れのごった煮スープということであって、ケの汁、ではなく、米が貴重だったころの、米代わりのお粥、つまり、粥の汁、縮まって、けの汁、だそうな。醤油ベースでも、味噌ベースでもいいようだ。つまりこれって、ミネストローネとか、ズッパベヌデューラといった、イタリアや南フランスの田舎料理のスープとおんなじである。どこの人でも同じようなことを考えるのだな〜、と妙に感心していると、連れが呟いた。「これって、豚肉の入ってない豚汁じゃない?」 まあそうかもしれないが、津軽版ミネストローネとして理解するのがいいのだろう。


八甲田丸、そして、けの汁に触れて、夕刻奥羽線で弘前に戻った。7時過ぎていて少し雨が降っていた。もちろん陽は落ちている。そうとなれば、やっぱり、何かで身体を温めなければと思うのは、普通の生理的な欲求であり、さっそく、ホテル近くの居酒屋の暖簾をくぐってみた。久しぶりの土地で、おまけにふらりと入ったわけなので、特別の思い入れはなかったが、結果としては、次の夜も利用させてもらうことになる、とても居心地のよい店だった。
炉端を囲むコの字のカウンターに、小さな小上がり。奥には大将が黙々と作業し、カウンター越しの炭焼き場には、若いお兄ちゃんが一人。そして、厨房とホールを行き来する見習いのお兄ちゃんがひとり。小さい店とはいえ、繁盛しているのでスタッフ3人じゃちょっときついのではないかとぼんやり見やっていたが、休むことなく、無駄口きくわけでもなく、返事はハイ!はい!っと、てきぱききびきび、本当に気持ちのいい仕事っぷりだった。


まずは、貝焼味噌を頼んでみた。これは、おおぶりのホタテの貝をお皿にして、ホタテをひとつ真ん中に置いて、溶き卵と味噌味の出汁を入れて、ネギをまぶして炭火で半熟状に焼いたもので、あつあつの卵とホタテを、ふ〜ふ〜しながら、ビールで楽しむ定番メニューだそうだ。一つ100円。ホタテも立派で、とても気に入った。
さて次にイカの丸焼き。これは何の変哲もない、イカの炭火焼きだ。と思っていたが、さすが、新鮮なイカが入手できる土地柄である。イカの中には腑がそのまま入っていて、それ丸ごとの炭火焼きであった。イカの身もコリコリしていて美味しかったが、火が通って湯気のでている腑と一緒に食べるイカ焼きは、およそ東京では無理だろう。東京では、どう考えても鮮度は落ちているので、腑が入ったままのイカ焼きなんかがでてきたら、却って大丈夫かと心配になるところだが、弘前の夜、テキパキキビキビとした手つきで目の前で焼かれたイカの丸焼きは、とても愛おしく思えたわけだ。(続く)



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2020/07/11

◎悪夢の居場所◎

| by patho

自分は“悪夢”をよく見る。乗った飛行機が、何度落ちたことか。小型フェリーが、嵐の波に飲まれて沈没したのは、何ヶ月前のことだったか。学会や講演会の発表当日になってもパワーポイントデータが完成しておらず、結局、間に合わなかった夢は、最近多くなってきた。大事な試験、おそらく医師国家試験か、医学部の卒業試験か、つまり、何年も積み上げてきて、ようやく“終了“となるころに、これまでの怠惰が祟って失敗する危機に直面するような、全身から血の気が失せる悪夢は、秋から冬に多い。特に、8月の“ひと夏の経験”が終わり、9月に入ると覿面である。センチメンタルな9月の雨(September Rain)ではなく、9月のトルネードである。瞬間的に真空になって、目の前が真っ暗になる奴だ。

スキーや登山など、装備が面倒な事は、無精者の自分はやらないが、なぜか雪崩に巻き込まれたこともある。パイプで組み立てた大きなコンサート会場のような建物が、大勢の人とともに崩れた現場にも居たし、ゾンビやオーメンに追っかけられたこともある。本当に疲れる奴だ。そうかと思えば、古いビルの中に迷い込んで、しかも、誰かに追われていて、なかなか地上にでることができない夢は、昔のアメリカTVの“逃亡者”の主人公・リチャード・キンブルのような気分であり、むしろ、ちょっと楽しみでもある。キンブルは、殺人者としての濡れ衣を着せられて警察から追われている、寡黙で渋い男であるが、そんな悪夢のときは、決まって寝汗をかいて首のあたりが“濡れ衣状態”である。

このような、“夢見る“自分とは、一体、脳のどこに居るのだろうか。光景や情景は、おそくら視覚情報として体験したことには違いないが、それが実体験である場合もあるだろうし、また、テレビや映画などで経験した視覚情報であることもあるだろう。そのような“視覚情報”は、網膜の神経細胞から視神経を通り、側頭葉底部にある外側膝状体を経て後頭葉極のブロードマン17野(一次視覚野)に到達したものと言うよりは、扁桃体に投射したものに違いない。

網膜から扁桃体に入る“視覚情報”は、“物”の姿・形を認識するのではなく、快・不快、好き・嫌い、安心・不安、恐怖・快楽、陰・陽というような、相反する気分を感じるという臨床的な知見が明らかにされている。網膜神経細胞からの視覚情報が伝達される後頭葉後端の左右の一次視覚野が破壊された患者は、完全に視覚情報の認識ができなくなるが(皮質盲という)、一方で、扁桃体に入力した網膜情報によって、快・不快、好き・嫌い、安心・不安、恐怖・快楽、陰・陽というようなムードを感じることができると言う。つまり、“物”を見たときに、セットで記憶される“扁桃体ムード情報“が脳内で息を吹き返すことが、第一義的な“悪夢”の本体であって、それに随伴して、昔見たような光景が見えてくる、という具合ではなかろうか。今夜も、扁桃体がズキンズキンするかと思うと、すこしわくわくするのであった。


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2020/07/10

◎函館下宿物語(1)◎

| by patho

中学2年のとき、横浜から函館に引っ越した。親の転勤のためである。家は某テレビ局の官舎で、400坪の土地に、100坪くらいの平屋の家。庭にはリンゴの木。バーベキューなどもよくやっていた。何不自由ない生活だった。そして高校3年の6月に、親達は、私を下宿に残して転勤のため、横浜に戻っていった。函館に残された理由は、もう少しで卒業だから、ということだったが、中学1年のときからの学費を払うことを躊躇したようである。下宿生活が始まる6月のある日、その広い自宅から高校にいつも通り登校し、午後早い時間、親が決めてあった賄い付きの下宿に初めて“帰宅”することになった。函館市時任町の片隅に、それはあった。

大家さんは、当時、70歳は軽く越えていると思われる老夫婦。おばあさんは小柄で優しそうな方だったが、おじいさんは、いわゆる明治の頑固親父、というような風貌だった。なんか疲れそうだな、とため息をつきながら玄関を入った私は、1階の台所兼食堂の向こう側の奥の部屋に連れてゆかれ、ここがあなたの部屋よ、と言われ、あっけにとられているうちに、背中のほうで、ふすまの扉がすっと閉まった。そのあとの静寂がどのくらい続いたか。

暗い。寒い、というよりは冷たい。6月なので、もう少し暖かくてもいいだろうし、昨日まで住んでいた家は、もっと暖かく、そして明るかった。それにしても、暗く、冷たい。一日中、陽があたらないような座敷牢のような部屋。思わず、親が運んであった段ボールの中のアノラックを着込んだ。親が高校での集団下宿説明会で、厳しそうな大家さんだから、ということで、ここの下宿にお世話になることを勝手に決めて、しかも、下見もなにもしていない。部屋も冷たいが、それ以上に、ずいぶん冷たい親だ。そのときの感情は、今もまったく変わらない。

これからどうなるのか。そして、急に押し寄せた空腹感。何か食べたい。何か飲みたい。が、何もない。家財道具といえば、身の回りの服や勉強道具が段ボールに入れられて届けてあるだけだった。もう、その日の昼に、親は函館を去っている。何てこった。腹が立つ。そして、その次に、またあの感覚。腹が減った。何か飲みたい。


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2020/07/09

◎函館下宿物語(2)◎

| by patho

いつもなら、リンゴが剥いてあったり、マスクメロンがあったり、食べるものに困ったことがなかったわけだが、一瞬にして、現実が変ったことを悟ったわけだ。とにかく、何か食いたい。夕食まではまだ長い。何か食いたい。その一心で、近くのスーパーに行ったが、手持ちの金との相談で、45円の食パン一斤だけを買ってきた。部屋に戻り、食パンに食らいつく。美味い、というより、ホットする。いや、ホットする、というより、美味いのだ。しかし、水分がないと、だんだん飲み込めなくなってくる。が、コップすら持ってこなかった。気の効かない薄情な親だ。そうは言っても何にもならない。ガラス製の大きなペン立ての中のペンを、机に放り出し、隣の台所の水道を捻り、水を一杯に入れて、部屋に戻り、一気に飲み干す。なにか、涙が溢れ出てくるぐらい美味く、そして侘しい感覚に打ちのめされた。食パン一斤をあっという間に、何もつけず、平らげたわけだが、あんなに、美味い水とパンを、いまだかつて食べたことがない、おまけに、あんなに寂しい薄くらい部屋で、独り。それも、数ヶ月後に襲ってくるオイルショックで、食パンが一気に3倍に値上がりすることも予見もできないまま。

もう陳腐な言葉だが、飽食の時代、と言われる。料理、グルメというと、なにか贅沢な響きがあるが、料理とは、食べて美味いと感じる生物学的な環境で自然と美味いと感じるものを提供することなのだろう。私の料理の原点は、あの時のパンと水にあったのかもしれない。乾いた砂に水が吸い込まれるよう、そんな状況を意図してキッチンに立つのが、料理の本質なのだろう。何も贅沢をすることはない。食材をその時に応じて、生かせばいいわけである。あの時のパンと水が、あの時の私にとっての、最高の食材だったように。

下宿生活をはじめた当初、何も家財道具というものがなかった。やがて必要になる石油ストーブは大家さん家のものを借りたのだが、晩秋になって寒くていられなくなって初めて使ってみたところ、芯が焼き切れていて煙しかでなかった。そのことを大家さんに言えばよかったわけだが、当時のワタシは遠慮がちだったのだろう、そのまま、使わずに一冬過ごしたのだった。


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2020/07/08

◎函館下宿物語(3)◎

| by patho

雪の季節になってくると、二重窓の外側の窓の立て付けが悪くなっていて、当然のように隙間が形成され、その周囲に雪の吹きだまりができてしまう。家の中に雪が積もるなんて、初めて経験した。当然寒い。だが、ストーブがない。あるのは、600ワットの電熱器だけである。南部鉄器の小さな急須があったので、それでお湯を沸かして、なんとなく暖かいような気持ちになるわけだが、すぐに冷えてしまう。なので、冷える前に沸いたお湯を飲んでしまえばよいと思い、中にお茶っ葉を放りこんで、お茶で体を温める。そんな生活をしていたわけだが、緑茶の葉っぱを入れるのに、いつもほうじ茶になって出てくるので、なんか変だな〜と思っていたわけだ。

ある日、茶っ葉を切らしたので、仕方なくお湯だけを飲もうとして、愕然とした。茶っ葉を入れなくても、ほうじ茶、なのである。なんで?と思って、飲んでみたところ、鉄臭い。なんだ、南部鉄の錆びをずっと飲んでいたのか。鉄欠乏性貧血にはいいのかもしれないが、若い男には関係ないし、鉄を飲んだからと言って、鉄人になれるわけでもないし、少しは体重が重くなったかって、なるわけない。南部鉄器の急須を見ると、いつも思い出すのは、あのときの鉄の臭い、である。

風呂は使わせてもらえなかったので、歩いて5分くらいの銭湯にときどき通っていた。ときどきが何日おきか忘れてしまったが、金もなかったので、そんなに頻繁にいくわけには行かなかった。とにかく、ひもじかったので、金があるのならば、何か食べたかったし、寒い季節になると、下宿に戻ってくるころには体が冷えてしまっていたので、億劫になっていたのだ。下宿の部屋の机の前においた電熱器は、冬ともなれば、暖房代わりに使っていたが、夜中になって、大家さんも下宿人も寝てしまわないと、ブレーカーが落ちてしまうので、寝袋に足から腰までつっこんで、上はアノラックに毛糸の帽子、という格好で過ごしていた。南部鉄器で鉄を飲んでいたのも、そんな深夜の一コマである。


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2020/07/07

◎函館下宿物語(4)◎

| by patho

それでもたまに銭湯で風呂に入りたくなるわけだし、そんな帰り道、無性に食べたくなるのは、甘いものだった。若かったんだろう。エネルギー補給にはテットリ早いのがグルコースである。そのころの、甘いもの、と言えば、ファンタオレンジ、エクレア、そして大福、である。風呂上がりに飲んだ、微炭酸のファンタオレンジの美味しかったこと、いまも鮮明に覚えている。昨今のファンタとは、おそらく甘味料が違うのだろうが、舌を刺激する炭酸とあまいオレンジの香り。銭湯の想い出といえば、ファンタオレンジだ。

でも、ジュースだけでは腹に溜まらないわけで、エクレアか、大福が欲しくなるわけだ。その当時、大福は1個15円だった。千代台の路面電車の停車場の近くに和菓子屋があって、たまに買うことがあったが、ある日、どうしても大福が食べたいものの、手持ちの金がまったくなかったことがあった。そこで、その和菓子屋の向かいに古本屋があったので、下宿に一旦戻り、使っていない新品同然の参考書を何冊か持っていって、90円に換えたことを、まだ覚えている。おまけに、どこかで万引きしてきたか、学校で誰かのものを盗んできたんだろう、という目で私を舐め回した店主の親父の顔。結局、生徒手帳を出して、名前を控えられ、90円を貰ったわけだが、すぐさま、その足で和菓子屋に行って、大福6個を購入。消費税がない時代でよかった。

下宿に帰る道すがら、歩きながら1個食べ、2個食べ、3個食べ。数分後、下宿についた頃には残っていなかった。下宿の部屋の電気をつけて、薄暗く寒い部屋の中央に敷いてあった万年床に寝転がっていたら、遠い港の方から、ぼ〜、という汽笛。なんか無性にわびしくなって、布団を頭まで被った。美味しいもの、大切なものは、最後に取っておく、という根性は、あのときに刻印されたのかもしれない。


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2020/07/06

◎青函連絡船のカレーライスー下宿を去る夜ー◎

| by patho

卒業式のシーズンにいつも思いだすことがある。私は高校の卒業式をすっぽかしたのだ。

中学2年から住んだ4年半の「函館」。最後の10ヶ月は、初めてのヒモジイ下宿生活。そんな生活も残り少なくなった高校3年の2月ころ、卒業試験も終わり、東京への帰り仕度を始めた。10ヶ月過ごした部屋には、布団とわずかばかりの身の回り品しかなかったので、引っ越しの荷造りは簡単だった。それよりも、処分しなければならないゴミのほうが多くて閉口した。このころになると、既に現役合格などは念頭にまったくなく、中也朔太郎の詩を読み耽ったり、なにやら訳知り顔で詩を書いてみたり、ブラームス交響曲第1番のスコアブックと睨めっこしたり、ほとんど廃人同様の生活をしていたわけだ。氷が張る冬になると、近くの市民公園の野外スケート場から聞こえてくるフィンガーファイブの浮っついた歌声が、妙に寂しく感じた感覚は、あれから40年も経とうとしているのに、今も自分の体の一部である。

中学2年の夏休みに東京から転校し、強烈な想い出が詰まった「函館」。東京から函館に引っ越した初めての8月の夜は暗くなるのが早かった。そして初めての朝は、布団の中で、サッカーの分厚い膝までのストッキングを探して履くくらい、寒く感じた。10月ころにはミゾレが降って、それでもみんなは傘をささない。こんな事ひとつとっても新鮮な出来事だった。冬になり手袋。手袋を「履く」って? 履くのは、そりゃ、靴下だよ、手袋は、する、でしょ?!なんていうような戸惑いも、新鮮だった。ともかく、若いうちは吸収力がある。函館の空気感にすぐに馴染んで、北海道弁も体に染み付き、好きなサッカーをグランドで、そして冬には、体育館でよくやったっしょ(←北海道弁)。なまら楽しい日々だった。因に、“なまら“は、本当に、すごい、とてつもなく、というような強調語である。

中学の担任は、担任を初めて持った若い美術の男性教師で、何事も、熱く語るタイプだった。三島由紀夫が割腹自殺を遂げた翌日のホームルームで、そのことを取り上げた。どう思う??と、新聞も読んでいない私にいきなり話を振った。えっ、その話、何?? 私はその事件を本当に知らなかったわけだが、知らない、というのも恰好わるいので、眉間にしわ寄せて黙っていると、「おまえは、黙秘か、、、」なんて、“議論”に負けたハンカクサイ奴に向けたようなストレートパンチが飛ぶ。 今ならば、割腹自殺・介錯、なんて言葉を聞けば、生々しい現実的な光景が浮かぶわけだが、その時は、一体何がおきたのかもわからなかった。因に、ハンカクサイは、恰好わるい、気味悪い、のような、なまらネガティブな言葉である。

そんなことは、ほんの少しのエピソードだが、函館に中学生のときに転校してから、深夜放送を聞くようになり、ほとんど朝方に寝るような不規則な生活。雪が降って積もった雪に、ずぼずぼ長靴が埋まり、春には砂まみれで真っ黒くべちょべちょになり、そして、そのあとは、ほんの短い夏の日々。でもすぐに、朝、布団の中でサッカーのストッキングを履いている自分がいる。

そんな生活を何年か繰り返し、沢山の想い出を胸に、高校三年の最後の冬の夜、青函連絡船で函館を離れる日がやってきた。下宿のおばあさんが船に間に合うようにと、気をきかせて、早めの夕食にしてくれて、下宿人数名に、“見送りに行ってあげなさい”と言ってくれた。それは、おばあさんの親切に違いはなかったのだが、学校や学年も違い、下宿生活の間、無言で夕飯を皆で食べる時間しか共有していなかったので、ほとんど口をきいたこともない。今夜これから、4年半の「函館」とサヨナラする大切な瞬間がやってくることを考えると、下宿の人達に見送られるのが、どうしても我慢できなかった。早い夕飯を食べて、駅までの市電のシートに座って、みんな黙りこくっている異様な緊張感。せっかく来てくれたのに、本当に悪いことをしたと思うのだが、市電を降りて船の改札のあたりで、“切符をなくした”と嘘を言い、わざと船に乗り遅れて、その結果、みんなと別れて、どうにかこうにか、函館駅で一人きりになることができたのだ。

何時発の青函連絡船だったのか? 乗船予定の船に確信犯として乗り遅れたので、次は、確か夜中12時の青森行き。もちろん、青森行きしかない。つまり、自分には、昨日まであった自由は、もうない。バイオリンの蛍の光の音色と共に、ゴンドラが鳴り響き、少しづつ船体は港から離れてゆく。船の下には黒く渦を巻く泡状の海面。思春期を過ごした4年半の、新鮮で、切ない強烈な想いが、船の下の泡沫となって少しづつ過去のものになり、架空の物語の断片になってしまう。昨日まで過ごした街の光がだんだん点状の小さな輝きとなり、やがて消えてしまうような焦燥感、喪失感が襲ってくる。デッキの上で、いつしか、古ぼけた木の手すりを、小さく、そして強く、なんども拳で叩いていた、どうして私は今ここにいるのだ、と。数時間前まで「函館」にいたはずの自分を、失いたくない、と。

もうこのまま、二度と、函館に戻ってくるのはよそう。

1ヶ月後の卒業式には一旦戻ってくるつもりにしていたが、船の上から見えるひとつひとつの思い出を瞬間冷凍して永遠のものにするために、もう函館には戻るまい、と心に誓ったのである。どれだけの時間、デッキに居たか。もう向こうは真っ暗闇。学園祭の夜にみんなで登ったはずの、函館山のシルエットも見えない。自転車で走った根崎の浜も、黒い海の向こうに判然としない。粗い岩肌の立待岬は、どこかに消えてしまったのだろうか。なかば放心状態で、揺れるデッキからフラフラと船内に戻り、小さな食堂でアルミ製の皿に盛られた、少しばかりカレーライスを食べながら、3月の卒業式はすっぽかそう、と決心したのである。春になるといつも、その薄っぺらなボリュームの、しかし、思い出いっぱいのカレーライスが脳裏に浮かび、脳底部の嗅球(olfactory bulb)から、黄色いカレー臭が脳内に漂うのであった。


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2020/07/05

◎しょっぱいフィッシュ&チップス◎

| by patho

神経研に赴任して3年くらい経ったころ、変性疾患のグリア病変の共同研究のため、1年間休職しロンドン大学精神医学研究所・神経病理研究室に向かった。小学低学年の二人の子供と私たち、一家四人で成田を発ち、やがて、ロンドン、ヒースロー空港へ着陸したわけだが、直前に上空から見たロンドン郊外の夕方の住宅地。もう10月も30日になっていたので日が暮れるのも早く、おまけに、黄色い乏しい街灯のためだろうか、ずいぶん暗いな、という第一印象は、それからの不安な生活を予感させるものだったのかも知れない。

とりあえず入国1日目は、ヒースローからタクシーで市内に向かい、予約してあった安ホテルBarkston Hotelに泊まった。日本からヨーロッパへ行くと決まって朝早く目が覚める。翌日31日朝、これから1年間住む予定のウィンブルドン近くのNew Maldenという街のsemi detached houseに入居した。正確にいうとそこはロンドンではなく、ロンドン南西のサリー州であった。日本を旅立つ前に地元の不動産屋とコンタクトを取り、身の丈にあった物件を決めていたので、ホテル暮らしをせずに入居できたので良かった。しかし、入居したその日の午後、地元の子供の仕業か、窓ガラスに小石が投げつけられたり、夜の食料を調達に買い出しで外に出た際、住宅地の雰囲気がちょっとばかり荒れているような印象があったので、なにげに不安な入居初日であった。子供らは日本で小2と小4で、ロンドン日本人学校ではなく、地元の公立学校をこれから探すことになっていたので、それもあってか、不安は結構大きかった。いい加減な親であることは、昔も今も変わらない。

借家の大家さんはイギリス国籍ではあるが、エジプト人の中年女性で、シャフィーさんという、とても気さくで親切な人だった。入居の午後に家に来て、あれやこれやと入居時の家具や設備などのチェック(inventory check)をして慌ただしく帰っていったが、相当な慌て者のようで、玄関先にバッグを置き忘れていった。案の定、すぐに電話があって夜7時ころ取りにくるという。ところが7時になっても8時になってもやってこない。まあ、こっちは時間にルーズだからなあ〜、と家族と一緒にリビングのソファーに座っていたとき、玄関のドアのピンポンが鳴った。“やっと来たよシャフィーさん”といってリビングから玄関に行き、扉の硝子窓を覗いた瞬間、血の気が失せて全身が凍りついた。確か、Oh No! だ〜め!だ〜め!というような仕草をしてリビングに戻り、家族に異変を気づかれぬよう、ソファーにわざとゆっくり座り、誰だったの?シャフィーさんじゃなかったの?という問いには返答できず、唇が一瞬で乾き、足が振るえ、心臓も振るえていた。あんなに怖い思いをしたのはいまだかつてない。

異邦での入居初日であること、思ったより荒れた雰囲気の住宅街であったこと、昼間ガラス窓に小石を投げられたこと、子供たちの通う学校が決まったとしても馴染めるかどうか、これからどんな生活が始まるのか。とっても不安なその夜に、こともあろうか、玄関扉の窓の外に立っている『頭からドスグロイ血を流した青白い顔の少年』。この光景のことは、帰国する直前まで家族に明かすことのできなかったくらい、人生、最初で最後の怖い体験だった。

あの夜、リビングの食卓に並んでいたのは、日が暮れる前に近くの店で買ってきた、油っぽくなった新聞紙に包まれた大量のフィッシュ&チップスだった。モルトヴィネガーソースを振りかけて食べる流儀は、帰国してから覚えたわけであるが、しょっぱい夜のそんなこんなで、これから1年どうなるものかと、なかなか寝つけなかったのだった。やがて年があけ、生活にも慣れ、帰国が近づいたとき、英国神経病理学会誌「Neuropathology and Applied Neurobiology」の編集長から、総説執筆の謝礼として300ポンドの小切手をいただいたが、未だ換金せずにチップスの塩気と油が染み付いたままである。“それはただのハロウィンの子供じゃなかったのか??”と腑に落ちるようになってきたのは、そんな、帰国も間近になった翌年の10月頃であった。


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2020/07/04

◎横浜の人間が多摩川を越えてうまくやってゆけるのか?◎

| by patho

内科1年、病理半年、神経科半年の研修の後、三杉教授のお誘いを受け母校・第二病理の助手に採用していただいた。研修医時代には、柳下三郎先生、原正道先生に神経病理のご指導をいただき、また、神経科の神経病理グループの天野直二先生(現・信州大学精神医学講座 教授)の背中を追っているうち、神経病理で生きてゆきたいと思うようになったのは、自然なことだった。しかし、神経病理だけで禄を食むには、東大、新潟大、九大、鳥取大での教授ポスト4席、東京都の3研究所(神経研、精神研、老人研)の研究員ポストが10席程度あったに過ぎない時代でもあった(今はもっと少なくなってしまったが)。

浦舟校舎の病理に入局した日、研修でお世話になった神経科・横井晋教授のお部屋に押し掛け、将来への気持ちを縷々申し述べたところ、その場で神経研の、後にボスになる研究員に電話をしてくださり、面談をしていただく運びとなった。面談というより、神経研近くの居酒屋での“酒量の試験”だったが、「新井さん、いつか声をかけるか約束はできないが、論文は書いておけよ」と言われ酩酊状態で終電に乗った。自分の足で歩き始めた瞬間でもあった。

それからと言うもの、解剖・実習等のノルマ以外は、“その時”のために、ひたすら論文を出す仕事に精を出し、一方では前途茫洋とした不安な日々を送っていたわけだが、昭和天皇が崩御された翌日の寒い夜、「新井さん、まだその気はあるか?」という、5年振りの自宅への電話の声を聞くなり、「お願いします!」と、焼酎のお湯割りを右手に持ち、直立不動だった自身の姿は、今も忘れない。

ジョブセミナーもどうにかクリアして、平成元年11月にあこがれの神経研の主任研究員の辞令を都庁でいただき、揚々とした気持ちで西国分寺の研究所へ初出勤したとき、待っていたのは本題に掲げた、当時の副所長の辛辣な一言であった。天から地に落ちる“乾いた音”を伴ったあの苦い一言のお陰で、母校を離れて他流試合をしてゆく“強い気持ち”を維持し続けられたのかも知れない。以来24年、うまくやれたか判らないが、新しい研究所に再編された今も、師と仰ぐアバンギャルド・岡本太郎の言葉のように、“常に新しくあり続けなければいけない”という命題に対峙したいと思っている。


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