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2020/07/05

◎しょっぱいフィッシュ&チップス◎

| by patho

神経研に赴任して3年くらい経ったころ、変性疾患のグリア病変の共同研究のため、1年間休職しロンドン大学精神医学研究所・神経病理研究室に向かった。小学低学年の二人の子供と私たち、一家四人で成田を発ち、やがて、ロンドン、ヒースロー空港へ着陸したわけだが、直前に上空から見たロンドン郊外の夕方の住宅地。もう10月も30日になっていたので日が暮れるのも早く、おまけに、黄色い乏しい街灯のためだろうか、ずいぶん暗いな、という第一印象は、それからの不安な生活を予感させるものだったのかも知れない。

とりあえず入国1日目は、ヒースローからタクシーで市内に向かい、予約してあった安ホテルBarkston Hotelに泊まった。日本からヨーロッパへ行くと決まって朝早く目が覚める。翌日31日朝、これから1年間住む予定のウィンブルドン近くのNew Maldenという街のsemi detached houseに入居した。正確にいうとそこはロンドンではなく、ロンドン南西のサリー州であった。日本を旅立つ前に地元の不動産屋とコンタクトを取り、身の丈にあった物件を決めていたので、ホテル暮らしをせずに入居できたので良かった。しかし、入居したその日の午後、地元の子供の仕業か、窓ガラスに小石が投げつけられたり、夜の食料を調達に買い出しで外に出た際、住宅地の雰囲気がちょっとばかり荒れているような印象があったので、なにげに不安な入居初日であった。子供らは日本で小2と小4で、ロンドン日本人学校ではなく、地元の公立学校をこれから探すことになっていたので、それもあってか、不安は結構大きかった。いい加減な親であることは、昔も今も変わらない。

借家の大家さんはイギリス国籍ではあるが、エジプト人の中年女性で、シャフィーさんという、とても気さくで親切な人だった。入居の午後に家に来て、あれやこれやと入居時の家具や設備などのチェック(inventory check)をして慌ただしく帰っていったが、相当な慌て者のようで、玄関先にバッグを置き忘れていった。案の定、すぐに電話があって夜7時ころ取りにくるという。ところが7時になっても8時になってもやってこない。まあ、こっちは時間にルーズだからなあ〜、と家族と一緒にリビングのソファーに座っていたとき、玄関のドアのピンポンが鳴った。“やっと来たよシャフィーさん”といってリビングから玄関に行き、扉の硝子窓を覗いた瞬間、血の気が失せて全身が凍りついた。確か、Oh No! だ〜め!だ〜め!というような仕草をしてリビングに戻り、家族に異変を気づかれぬよう、ソファーにわざとゆっくり座り、誰だったの?シャフィーさんじゃなかったの?という問いには返答できず、唇が一瞬で乾き、足が振るえ、心臓も振るえていた。あんなに怖い思いをしたのはいまだかつてない。

異邦での入居初日であること、思ったより荒れた雰囲気の住宅街であったこと、昼間ガラス窓に小石を投げられたこと、子供たちの通う学校が決まったとしても馴染めるかどうか、これからどんな生活が始まるのか。とっても不安なその夜に、こともあろうか、玄関扉の窓の外に立っている『頭からドスグロイ血を流した青白い顔の少年』。この光景のことは、帰国する直前まで家族に明かすことのできなかったくらい、人生、最初で最後の怖い体験だった。

あの夜、リビングの食卓に並んでいたのは、日が暮れる前に近くの店で買ってきた、油っぽくなった新聞紙に包まれた大量のフィッシュ&チップスだった。モルトヴィネガーソースを振りかけて食べる流儀は、帰国してから覚えたわけであるが、しょっぱい夜のそんなこんなで、これから1年どうなるものかと、なかなか寝つけなかったのだった。やがて年があけ、生活にも慣れ、帰国が近づいたとき、英国神経病理学会誌「Neuropathology and Applied Neurobiology」の編集長から、総説執筆の謝礼として300ポンドの小切手をいただいたが、未だ換金せずにチップスの塩気と油が染み付いたままである。“それはただのハロウィンの子供じゃなかったのか??”と腑に落ちるようになってきたのは、そんな、帰国も間近になった翌年の10月頃であった。


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