随想

 
 
随想 >> 記事詳細

2020/07/11

◎悪夢の居場所◎

| by patho

自分は“悪夢”をよく見る。乗った飛行機が、何度落ちたことか。小型フェリーが、嵐の波に飲まれて沈没したのは、何ヶ月前のことだったか。学会や講演会の発表当日になってもパワーポイントデータが完成しておらず、結局、間に合わなかった夢は、最近多くなってきた。大事な試験、おそらく医師国家試験か、医学部の卒業試験か、つまり、何年も積み上げてきて、ようやく“終了“となるころに、これまでの怠惰が祟って失敗する危機に直面するような、全身から血の気が失せる悪夢は、秋から冬に多い。特に、8月の“ひと夏の経験”が終わり、9月に入ると覿面である。センチメンタルな9月の雨(September Rain)ではなく、9月のトルネードである。瞬間的に真空になって、目の前が真っ暗になる奴だ。

スキーや登山など、装備が面倒な事は、無精者の自分はやらないが、なぜか雪崩に巻き込まれたこともある。パイプで組み立てた大きなコンサート会場のような建物が、大勢の人とともに崩れた現場にも居たし、ゾンビやオーメンに追っかけられたこともある。本当に疲れる奴だ。そうかと思えば、古いビルの中に迷い込んで、しかも、誰かに追われていて、なかなか地上にでることができない夢は、昔のアメリカTVの“逃亡者”の主人公・リチャード・キンブルのような気分であり、むしろ、ちょっと楽しみでもある。キンブルは、殺人者としての濡れ衣を着せられて警察から追われている、寡黙で渋い男であるが、そんな悪夢のときは、決まって寝汗をかいて首のあたりが“濡れ衣状態”である。

このような、“夢見る“自分とは、一体、脳のどこに居るのだろうか。光景や情景は、おそくら視覚情報として体験したことには違いないが、それが実体験である場合もあるだろうし、また、テレビや映画などで経験した視覚情報であることもあるだろう。そのような“視覚情報”は、網膜の神経細胞から視神経を通り、側頭葉底部にある外側膝状体を経て後頭葉極のブロードマン17野(一次視覚野)に到達したものと言うよりは、扁桃体に投射したものに違いない。

網膜から扁桃体に入る“視覚情報”は、“物”の姿・形を認識するのではなく、快・不快、好き・嫌い、安心・不安、恐怖・快楽、陰・陽というような、相反する気分を感じるという臨床的な知見が明らかにされている。網膜神経細胞からの視覚情報が伝達される後頭葉後端の左右の一次視覚野が破壊された患者は、完全に視覚情報の認識ができなくなるが(皮質盲という)、一方で、扁桃体に入力した網膜情報によって、快・不快、好き・嫌い、安心・不安、恐怖・快楽、陰・陽というようなムードを感じることができると言う。つまり、“物”を見たときに、セットで記憶される“扁桃体ムード情報“が脳内で息を吹き返すことが、第一義的な“悪夢”の本体であって、それに随伴して、昔見たような光景が見えてくる、という具合ではなかろうか。今夜も、扁桃体がズキンズキンするかと思うと、すこしわくわくするのであった。


00:00 | 投票する | 投票数(0) | コメント(0)