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2020/07/06

◎青函連絡船のカレーライスー下宿を去る夜ー◎

| by patho

卒業式のシーズンにいつも思いだすことがある。私は高校の卒業式をすっぽかしたのだ。

中学2年から住んだ4年半の「函館」。最後の10ヶ月は、初めてのヒモジイ下宿生活。そんな生活も残り少なくなった高校3年の2月ころ、卒業試験も終わり、東京への帰り仕度を始めた。10ヶ月過ごした部屋には、布団とわずかばかりの身の回り品しかなかったので、引っ越しの荷造りは簡単だった。それよりも、処分しなければならないゴミのほうが多くて閉口した。このころになると、既に現役合格などは念頭にまったくなく、中也朔太郎の詩を読み耽ったり、なにやら訳知り顔で詩を書いてみたり、ブラームス交響曲第1番のスコアブックと睨めっこしたり、ほとんど廃人同様の生活をしていたわけだ。氷が張る冬になると、近くの市民公園の野外スケート場から聞こえてくるフィンガーファイブの浮っついた歌声が、妙に寂しく感じた感覚は、あれから40年も経とうとしているのに、今も自分の体の一部である。

中学2年の夏休みに東京から転校し、強烈な想い出が詰まった「函館」。東京から函館に引っ越した初めての8月の夜は暗くなるのが早かった。そして初めての朝は、布団の中で、サッカーの分厚い膝までのストッキングを探して履くくらい、寒く感じた。10月ころにはミゾレが降って、それでもみんなは傘をささない。こんな事ひとつとっても新鮮な出来事だった。冬になり手袋。手袋を「履く」って? 履くのは、そりゃ、靴下だよ、手袋は、する、でしょ?!なんていうような戸惑いも、新鮮だった。ともかく、若いうちは吸収力がある。函館の空気感にすぐに馴染んで、北海道弁も体に染み付き、好きなサッカーをグランドで、そして冬には、体育館でよくやったっしょ(←北海道弁)。なまら楽しい日々だった。因に、“なまら“は、本当に、すごい、とてつもなく、というような強調語である。

中学の担任は、担任を初めて持った若い美術の男性教師で、何事も、熱く語るタイプだった。三島由紀夫が割腹自殺を遂げた翌日のホームルームで、そのことを取り上げた。どう思う??と、新聞も読んでいない私にいきなり話を振った。えっ、その話、何?? 私はその事件を本当に知らなかったわけだが、知らない、というのも恰好わるいので、眉間にしわ寄せて黙っていると、「おまえは、黙秘か、、、」なんて、“議論”に負けたハンカクサイ奴に向けたようなストレートパンチが飛ぶ。 今ならば、割腹自殺・介錯、なんて言葉を聞けば、生々しい現実的な光景が浮かぶわけだが、その時は、一体何がおきたのかもわからなかった。因に、ハンカクサイは、恰好わるい、気味悪い、のような、なまらネガティブな言葉である。

そんなことは、ほんの少しのエピソードだが、函館に中学生のときに転校してから、深夜放送を聞くようになり、ほとんど朝方に寝るような不規則な生活。雪が降って積もった雪に、ずぼずぼ長靴が埋まり、春には砂まみれで真っ黒くべちょべちょになり、そして、そのあとは、ほんの短い夏の日々。でもすぐに、朝、布団の中でサッカーのストッキングを履いている自分がいる。

そんな生活を何年か繰り返し、沢山の想い出を胸に、高校三年の最後の冬の夜、青函連絡船で函館を離れる日がやってきた。下宿のおばあさんが船に間に合うようにと、気をきかせて、早めの夕食にしてくれて、下宿人数名に、“見送りに行ってあげなさい”と言ってくれた。それは、おばあさんの親切に違いはなかったのだが、学校や学年も違い、下宿生活の間、無言で夕飯を皆で食べる時間しか共有していなかったので、ほとんど口をきいたこともない。今夜これから、4年半の「函館」とサヨナラする大切な瞬間がやってくることを考えると、下宿の人達に見送られるのが、どうしても我慢できなかった。早い夕飯を食べて、駅までの市電のシートに座って、みんな黙りこくっている異様な緊張感。せっかく来てくれたのに、本当に悪いことをしたと思うのだが、市電を降りて船の改札のあたりで、“切符をなくした”と嘘を言い、わざと船に乗り遅れて、その結果、みんなと別れて、どうにかこうにか、函館駅で一人きりになることができたのだ。

何時発の青函連絡船だったのか? 乗船予定の船に確信犯として乗り遅れたので、次は、確か夜中12時の青森行き。もちろん、青森行きしかない。つまり、自分には、昨日まであった自由は、もうない。バイオリンの蛍の光の音色と共に、ゴンドラが鳴り響き、少しづつ船体は港から離れてゆく。船の下には黒く渦を巻く泡状の海面。思春期を過ごした4年半の、新鮮で、切ない強烈な想いが、船の下の泡沫となって少しづつ過去のものになり、架空の物語の断片になってしまう。昨日まで過ごした街の光がだんだん点状の小さな輝きとなり、やがて消えてしまうような焦燥感、喪失感が襲ってくる。デッキの上で、いつしか、古ぼけた木の手すりを、小さく、そして強く、なんども拳で叩いていた、どうして私は今ここにいるのだ、と。数時間前まで「函館」にいたはずの自分を、失いたくない、と。

もうこのまま、二度と、函館に戻ってくるのはよそう。

1ヶ月後の卒業式には一旦戻ってくるつもりにしていたが、船の上から見えるひとつひとつの思い出を瞬間冷凍して永遠のものにするために、もう函館には戻るまい、と心に誓ったのである。どれだけの時間、デッキに居たか。もう向こうは真っ暗闇。学園祭の夜にみんなで登ったはずの、函館山のシルエットも見えない。自転車で走った根崎の浜も、黒い海の向こうに判然としない。粗い岩肌の立待岬は、どこかに消えてしまったのだろうか。なかば放心状態で、揺れるデッキからフラフラと船内に戻り、小さな食堂でアルミ製の皿に盛られた、少しばかりカレーライスを食べながら、3月の卒業式はすっぽかそう、と決心したのである。春になるといつも、その薄っぺらなボリュームの、しかし、思い出いっぱいのカレーライスが脳裏に浮かび、脳底部の嗅球(olfactory bulb)から、黄色いカレー臭が脳内に漂うのであった。


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