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2020/07/13

◎津軽の旅 2006 (1)◎

| by patho

今年(2016年)の6月は弘前で第57回日本神経病理学会がある。今から10年以上前の2006年、津軽の旅をして以来の弘前行きである。以下、当時の日記を振り返ってみた。

------------------------(以下 日記2006)-------------------------

朝8時過ぎに東京を出発し、一路、弘前へ。八戸まで新幹線で3時間、そこから青森駅経由で1時間半。昼過ぎには弘前駅に到着した。チェックインしたホテルのフロントには、津軽の名家に誕生した第3子が男であった由の、昔の号外が置いてあった。太宰治、である。

弘前への訪問は25、6年振りだ。大学生のころに何かの全国集会が弘前であったので、東京から函館に飛んで、青函連絡船で青森に戻り、汽車で弘前入りしたことを、おぼろげながら覚えている程度だ。それはちょうど、ねぷたの頃で、弘前大学付近の宿泊所に雑魚寝をしながら、連日会議をしていたような気もするが、何の会議であったのすら、その辺はもう記憶にない。そんなことを考えながら、ホテルを後にして、弘前入りの途中に通った青森まで、奥羽線の各駅電車で戻ってみることにした。約40分、右手に八甲田連峰を見やりながら、ふと思いついた。青森港に保存停泊中の青函連絡船、八甲田丸を見に行こうと。

青函連絡船には若い頃、何度も乗った。生まれて間もなくの東京から函館へ(ただし記憶はないが)。その後、札幌、東旭川、旭川。売れない流しの演歌歌手のようだ。そして、小学校2年に旭川から東京へ。中学校2年の時の東京からまた函館へ。親は勝手なものだが、小さい頃は文句も言わずについていかなければならない。その後は、中学卒業の春休みにトランペットを買いに函館—東京の往復。高校3年、一人下宿をして初めての夏休み、東京への帰省往復、そして冬休みの往復。大学になってから、一度、函館放浪の旅。それらすべてが、青函連絡船であった。

そんな事を、ぼんやりと数えながら青森駅に降り立つ。駅前できょろきょろするまでもなく、黄色と白に塗られた八甲田丸が目に入る。なんだ、結構綺麗に手をいれちゃってるのか、と少し溜め息をついて歩いて近づいてみたが、次第に大きくなる船体には、長年の風雪に耐えきれなくなった錆が、いたるところに顕われてきていて、なぜかほっとしたわけだ。そう、あの時のままの連絡船だよ。シケで出ることができなかったデッキがあれだよ、乗船する時の木製の扉があれだよ、外の夜の海原を覗いた小さな窓の奥に映る少年の影が、あの頃の僕だよ。そんな感傷みたいな感覚に包まれながら、北津軽の旅が始まったのである。


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