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2020/07/04

◎横浜の人間が多摩川を越えてうまくやってゆけるのか?◎

| by patho

内科1年、病理半年、神経科半年の研修の後、三杉教授のお誘いを受け母校・第二病理の助手に採用していただいた。研修医時代には、柳下三郎先生、原正道先生に神経病理のご指導をいただき、また、神経科の神経病理グループの天野直二先生(現・信州大学精神医学講座 教授)の背中を追っているうち、神経病理で生きてゆきたいと思うようになったのは、自然なことだった。しかし、神経病理だけで禄を食むには、東大、新潟大、九大、鳥取大での教授ポスト4席、東京都の3研究所(神経研、精神研、老人研)の研究員ポストが10席程度あったに過ぎない時代でもあった(今はもっと少なくなってしまったが)。

浦舟校舎の病理に入局した日、研修でお世話になった神経科・横井晋教授のお部屋に押し掛け、将来への気持ちを縷々申し述べたところ、その場で神経研の、後にボスになる研究員に電話をしてくださり、面談をしていただく運びとなった。面談というより、神経研近くの居酒屋での“酒量の試験”だったが、「新井さん、いつか声をかけるか約束はできないが、論文は書いておけよ」と言われ酩酊状態で終電に乗った。自分の足で歩き始めた瞬間でもあった。

それからと言うもの、解剖・実習等のノルマ以外は、“その時”のために、ひたすら論文を出す仕事に精を出し、一方では前途茫洋とした不安な日々を送っていたわけだが、昭和天皇が崩御された翌日の寒い夜、「新井さん、まだその気はあるか?」という、5年振りの自宅への電話の声を聞くなり、「お願いします!」と、焼酎のお湯割りを右手に持ち、直立不動だった自身の姿は、今も忘れない。

ジョブセミナーもどうにかクリアして、平成元年11月にあこがれの神経研の主任研究員の辞令を都庁でいただき、揚々とした気持ちで西国分寺の研究所へ初出勤したとき、待っていたのは本題に掲げた、当時の副所長の辛辣な一言であった。天から地に落ちる“乾いた音”を伴ったあの苦い一言のお陰で、母校を離れて他流試合をしてゆく“強い気持ち”を維持し続けられたのかも知れない。以来24年、うまくやれたか判らないが、新しい研究所に再編された今も、師と仰ぐアバンギャルド・岡本太郎の言葉のように、“常に新しくあり続けなければいけない”という命題に対峙したいと思っている。


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